原爆ドーム前で奇跡の出会い
寒さもやわらぎ、新芽も芽を出す今日この頃。
僕は過去に掃除活動をしたことのある広島平和記念公園を訪れました。
ちょうど天気も良く清々しい日でした。
冬でも半袖で過ごせるくらい気温も高くて、まるで南半球にでもいるかのような気分の中。
快晴でなにか良いことが起きそうな予感がしました。
原爆ドームの前で写真を撮っていると、原爆ドームの南側に一人の男性がいらっしゃいました。
その男性はご自身の被爆体験をもとに75年前の県産業奨励館をステンドグラスで再現されて
平和の大切さを伝える活動をされている方です。
この日、たまたま奇跡の出会いをしました。
寺尾 興弘(てらお おきひろ)さん
寺尾さんは原爆ドームの前でご自身の被爆体験をボランティアガイドとして観光客に話しています。
寺尾さんは原爆が投下されたときまだ4歳6ヶ月でした。
8月6日爆心地から約4km離れた場所で被爆しました。
お生まれになられたのはドームの西約200mの鍛冶屋町(現:中区本川町)
県産業奨励館(現:原爆ドーム)にもお母さんに連れられて一緒に行った記憶があるそうです。
『生き残ることができて信じられないほど幸運だった』
寺尾さんはこのようにお話されました。
「私の父が自分の命と引き換えに家族を守ってくれたんです」
被爆直前の1945年7月お父さんが中国で戦死したという知らせが届きました。
お母さんは残った家族を守ろうとお父さんの実家の祇園町(現:安佐南区)に疎開することを決めました。
疎開してから二週間後に被爆しました。
爆心地から約4.1km離れていたので運良く助かったのです。
お父さんが亡くなったのは8月6日から約1年前。
その知らせを受けたのが8月6日から約1ヶ月前。
もしも知らせを1ヶ月前に受けとっていなければ…と寺尾さんは言葉をつまらせました。
原子爆弾がどんなものだったのか?
なぜ落とされたのか?
初めて知ったことも多くとても衝撃的でした。
全世界2億8,000万世帯が視聴
寺尾さんは過去に全世界2億8,000万世帯が視聴したテレビ番組に出演しました。
番組は東京のテレビ局が放送したもので、なぜ全世界に放映されたのか知ることができた理由があります。
ある日寺尾さんに会いに外国人が広島平和記念公園を訪れました。
アイスランド、ノルウェー、ネパール、ロサンゼルス。
北ヨーロッパ、北欧、南アジア、アメリカ合衆国。
とても多くの国や地域から寺尾さんに会いに来てくれるそうです。
そして世界中に発信されたことを知りました。
世界にただ一人 原爆ドームのステンドグラス工芸作家
寺尾さんは原爆ドームの被害を受ける前と受けた後を忠実に再現した模型を作っています。
現在は定年されていますが、数年前からステンドグラスを学ばれています。
原爆ドームの姿を目にするたび亡くなったご両親のお姿が思い浮かびました。
元安川を挟んで対岸のベンチに座って眺めるとご両親が思い浮かび勇気を与えてくれる。
そして原爆ドームの制作を決意されたそうです。
製作期間は2年かかりました。
ステンドグラスで再現された原爆ドームはとても綺麗で細かいところまで配慮が行き届いています。
特に一番目を引く、天井部分には約120個のパーツが使われています。
天井の部分の銅色のパーツを探すのに大変苦労されたそうです。
2014年夏に完成されたそうで、ほどなくこう指摘されました。
「実際の屋根の色と違うんじゃないのか?」
制作当初は色が違う色で実際の色は銅が酸化した緑青の色だったみたいです。
色みが分かる資料を探したり、有名な自由の女神の銅像をもとに研究を重ねました。
全てのパーツをアメリカから取り寄せて作成された原爆ドーム。
全体でなんと約3,000個以上のパーツで構成されていてまさに寺尾さんの努力の結晶です。
原爆ドームが被爆する前の姿を見た方は少ないと思います。
どんな建物だったのか?何をするところだったのか?とても貴重な資料です。
広島県産業奨励館
1915年(大正4年)チェコ人の設計士ヤン・レッルにより広島県物産陳列館として竣工されました。
その頃の広島は都心部のほとんどが、木造2階建て住宅が多く
大胆なヨーロッパ風な建築デザインは非常に珍しく市民にとってとても画期的なものでした。
全体は窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室で中庭もありました。
中庭の広さは約500坪から600坪あり樹木が植えられ
洋式庭園には八方から水を吐く噴水を備えた池もありました。
その上に銅板の楕円形ドームが載せられていました。
ドームは長軸約11m、短軸約8m、高さが4mでした。
1Fは主に事務用で、2F、3Fが陳列用でした。
館の業務は県内の物産、他府県からの参考品の収集や陳列、図案調整等をしていました。
会場を提供することで、博物館、美術館としても役割を果たしました。
1945年8月6日に原爆に被爆しました。
その後その姿は凄まじさを語る世界遺産となっています。
作:寺尾 興弘さん
日暮れのガイド
寺尾さんとの出会いは衝撃的でした。
過去学生時代に学んだ平和学習での話以外のことも聞かせて頂きました。
また、改めて平和について考えさせられるきっかけとなりました。
この話は必ず後世に繋いでいくべきだと感じました。
一人の力でどうにもならないような状況だとしても
グレタ・トゥーンベリさんのように第一歩を踏み出せば景色は違って見えるはずです。
寺尾さんの体験談に夢中になっているといつしかだんだんと日も暮れ始めました。
いつの頃からか寺尾さんは日暮れのガイドと呼ばれるようになったそうです。
お会いした日は今年(2020年)になって2回めのボランティアガイドをされた日。
年々お身体のこともあり来られる日も減らされていたそうです。
そんな中この日は2020年2月2日。
たまたま「2」が偶然重なったもう二度と来ない日。
そんな日にたまたま広島平和記念公園に行き、奇跡の出会いをしました。
寺尾さんも
「今日は過去5年間でこんなこと初めて」
とおっしゃられていました。
驚かれていたのは僕を含めて3人、皆男性で寺尾さんのお話を最後まで聞いたことです。
一期一会、出会いに感謝します。
またいつの日かお会いして寺尾さんのおかげで頑張っています!
と胸を張って報告をしに行きたいと思います。
『人生努力』
寺尾さん、お話して頂きどうもありがとうございました。